雑感
世の中には所謂「ヒモ」と呼ばれる方々がおられる。スナックのカウンターの一番奥にいつも陣取ってらっしゃる方は大抵そうだよ、と若かりし頃人生の手練なる先パイに教えられたことがある。結構当たっていたような気がする。
ヒモも様々な態様があって、全くお金を入れないがあまり消費もせず慎ましやかな方もいれば、頂いたお金を飲む、打つ、買うに蕩尽するというシン・ヒモもいる。
唐突にこのような切り出しから初めたのは理由があって、少子化を考え始めたら横道にそれてなんとなしに「ヒモ」に行き着いたからである。
少子化の原因は多岐にわたっている。経済、社会、教育等数え上げたらキリがない。根本的な解決策はなかなか見いだせないだろう。人口増の国の政策を追えばよいというものでも無いらしい。
そこでふと考える。終戦後のあれだけ食も職も、全てが無い中でなぜ子供だけはわんさかと溢れたのだろうか。待ち望んだ平和の到来がもたらした安心感、アメリカが示した民主主義の開放感、一気に失われた300百万余の命の補填という生物学的な本能、色々挙げても全て現代に適用することはできない。あれはあの時代のみに起こった一つの現象である。
他所では婚姻関係外の子供にも養育の給付を制度化している国もあると聞く。「ヒモ」さんをパートナーとして子が生まれ、その子を正式のメンバー候補として社会が育てる。それが適切かどうかは置いといて、そういう政策を進めれば社会の様相が変わるのは間違いないだろう。だから、と逡巡する為政者もいれば、それが何、とあっけらかんとする者もいる。
因みに,件のカップルは子の誕生を気持ちよく迎えたかったのだろう、目出度くも正式の夫婦と相成ったが、数年も立たずに別れることとなった。「ヒモ」としてはそれなりに機能していたが、「夫および父」の役割は果たせなかったということなのだろう。
少子化一つでも考え始めたらキリがない。処理すべき書類は山のように積み上がっているのだが。
令和5年5月3日(憲法記念日)
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