未来は案外すぐ傍に
チャットGPTへの危機感がこのところ一気に膨らんできている。大手IT企業それぞれの思惑があるのだろうが、研究開発そのものがそのような声で萎んでくるとはとても思えない。むしろ急加速するのはこれからとも言われているくらいである。便利なものはたとえどのような規制がかかっても人類は手放さない、必ず使うものである。ドロドロとした欲望が絡めばなおのことである。自分の思い描く世界が瞬時に文章、映像となるのである。プログラムさえ作ってくれるのである。必ず使う筈である。人は自由な原野を得たとき、文字通りの原人となる。物質化された妄想が個人を欲望の暴走に誘う。多分そうなるであろう。
「良きこと」は普遍化されない。正しき一つを求めているからである。そんなものは見つからない。「正しきこと」は人を拒絶している。招いているようで拒絶しているのである。
かたや欲望は無限である。であるからこそ、人を魅了する。「何をしてもいい」という呪文は麻薬のように人を変えていく。
そのようにして変容した自己は自省の機を失い自己そのものへの関心を喪失する。自己への言及をせぬ者が他者へ向かうとはとても思えない。個対個の連帯は薄れていく。連帯、交流をしなくなった人類はもう人ではない。
そこに気づくのが早いか、欲望の暴走が極点にまで達するのが先か、果たしてどちらだろう。
因みに私は人が得た最高の喜びは、神の啓示を受けた時でなく、仏の慈愛に触れた時でもなく、あらゆるモノ、事象に名がついているということを知った三重苦の女の子のそれだろうと思う。なぜならその時こそ紛れもなく「人」が生まれた瞬間だからである。と同時に自由を失った瞬間でもあるが。
でも、それでもと続けたくなる。それでも人は自由を横において他者と繋がりたくなるものである。その「たくなる」を感動という添え物で表すのが芸術であろう。で、GPTはということにつながるのだが・・・。
令和5年5月29日
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