人は倫理を原理として獲得できるか

なかなかのテーマである。

ある思想家と若者との会話(ネット上での)で私が勝手に当たりをつけ、文字にすればこういうことなんだろうなというので表題にしてしまった。

予告だが、何をいっているのかわからないという結末になるはずである。

まずは辞書的な認識としては倫理とは「 人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。」となっている。

若者は原理を得たがるが年配者はそれを言えない、言いたいけど言えない。ある程度は説明できるけど、すればするほど若者の心は遠のく。それがわかっているからなおさら言えない。

そういう双方のもどかしさが文字上でも伝わってくる。

「存在倫理」という分かるようで解らない言葉が心に残っている。誰が言い出したのだろうか、たしか吉本隆明が使っていた思う。氏が作った造語なのか判然としないが、でも使いたくなる概念?である。

存在の構成要素に倫理を置く、つまりあなたの存在そのものが倫理的なんだよ力強く定義づけている。禅問答的だが、小難しい理屈を凡人にはとても届かぬくらい高く積み上げているとしか思えない哲学書(入門編ですら)よりは気楽に自由に考えを巡らすことができて好ましい。何より「隣人愛」のみで全てを包む宗教とか、〇〇主義で世界を統べようとする試みより断然心地よい。

倫理は可知、不可知の狭間の深い崖の向こうに存在している。そこに人は永久にたどり着けない。橋をかけることはできない、距離が測れないから。谷を降りることもできない、闇に吸い込まれるだけだから。ただひたすら憧れるだけである。そしてよりどころのない確信を抱き続けるだけである。

「神なき世界をあるかのように生きる」

これも誰かが言っていた。

令和4年8月18日

ケアマネ矢田光雄のひとり言

福岡県北九州市小倉北区真鶴にて「小倉ケアプランセンター」というケアマネ・ヘルパー事業所を経営しております。 こちらでは日々のひとり言をつぶやいております。

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