与える者と与えられる者
「道徳の外部委託」という見出しが目に止まった。
以前働き者のニワトリと怠け者の3匹の物語(ウクライナ民謡らしい)を紹介した。私は倫理・道徳を考える際にはいつもこの話が浮かんでくる。持たざる者が持つ者にその余剰分を要求できる理屈が成立するか。少なくとも感情レベルでは否定せざるをえないのでこの物語はニワトリの倫理観を含めた生き方があのような無償の行為を生むのだと主張しているのだろうと考えていた。
しかし倫理が何人も異を挟む余地なく完全な論理構成を持つならばそれは万人が従うべきものとなるはずである。知性は正しいものを否定出来ないので発信者が誰であろうとニワトリ側に倫理上の制約を課することは可能である。つまり怠け者たちがニワトリに彼の(彼女の)労働の成果をなんの見返りもなく要求することは不可能ではない、筈である。
現実的には即座に「何を厚かましい!」と怒りの言葉を受けるのが落ちであろうが。
でもよくよく考えれば我々の社会では持つものが税金という形式で集められて資金が持たざるものに分け与えてられているのである。つまり納税者はある部分で既にニワトリになっているのである。個々のレベルでは生活保護を始めとした持たざるものへの給付の一切を認めない、税金も取られたくない、といったトランプ教の人もいるが、大方は現行の福祉制度を承認している。感情が納得出来ないことを社会機構では成立させているのである。それは人類が倫理的に進歩した結果ではなく社会経済上の要請によるものではあるけれど。
だからこそ我々はニワトリを受け入れることができるのである。ニワトリになれない私は完全な倫理を手に入れることは出来なくとも、それらしきものは目の前にあったと納得したいのである。
令和4年10月14日
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