「古池や蛙飛び込む水の音」

以前も書いたことだが日本人は理屈が嫌いである。立派なオトナが若者に「言葉はあまり多くないほうがいいですね」などとしたり顔で諭したりしている場面が教育、修行の過程でよく目にする。この介護の業界も似たような傾向にある。プランプランと騒いじゃいるが、要は心、ハートが大事、てなもんで、カリスマ介護士が横行し理論家が疎まれる。ハートでわかり合える範囲は実は限られているのだよ、と言ってもあまり賛同は得られない。皆ハートへの幻想があるからである。

旧石器時代から日本列島に住む人々は数万年の間文字を持たずに文化を形成していた。ここで言う文化とは、ただの「食う」「出す」「寝る」以外の生活における付加的な営みの継承を指す。土器の模様、身に着ける装飾品、呪いの道具等である。文字はご存知のように大陸からやってきた。その後の列島人は悪戦苦闘の末独自の文字文化を形成してきた。俳句、短歌はその精華であろう。しかし、その精華、もしくは結晶は文字の無い時間に積み重ねられた、列島人の情念の堆積による圧力無しには成立しない。俳句や短歌は文字のもつ概念化への強制力との格闘の末に滲み出すように生み出たものであると私は勝手に思っている。

「古池や蛙飛び込む水の音」

解釈本を読んだことはないが、この句から印象付けられるのは音であろうが、心に残るのは音と波紋が消えた後の、より一層静けさの中に沈み込む湖の風景である。俳句は往々にして音や匂いをトリガーに人の心を射抜く。いきなり別の扉が開いて文字を知る以前の人々が見ていた、感じたであろう世界に投げ込まれたような気になる。

となると俳句、短歌を扱った番組が結構な視聴率を稼ぐというのも「列島人の原風景」という観点で見ればあながち不思議なことではないのかもしれない。

令和4年11月18日

ケアマネ矢田光雄のひとり言

福岡県北九州市小倉北区真鶴にて「小倉ケアプランセンター」というケアマネ・ヘルパー事業所を経営しております。 こちらでは日々のひとり言をつぶやいております。

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