下へ倣え
保護世帯において「大学進学」「ストーブの買い替え」などこれらの贅沢は認められない、という判断が続いている。我が事業所でもこれに関しては賛否が分かれる。否定派はほとんどが感情論からの主張である。実際ケアマネは保護ケースへのアクセス機会が多い職種であるだけに、時にはいかがなものかという生活状況を時々は目にする。それがため憤りが抑えられぬということも多々あるのだろう。しかしである、事は法律、しかも国の福祉制度の根幹に関わる制度である。人類が多年にわたって築き上げてきたおそらく国家が続く限り今後もこの制度が廃止ということはないであろう。それは人々の他者を助けたいという感情の総和によって成立したというあやふやなものではなく国の運営上必要なことであったがゆえ精密な倫理構成と法理論のもとに作り上げてきたものだからである。
だからこそと、少しトーンを上げながら当事業所のケアマネさんに私流の拙い理屈を説くも、なかなか理解を得られない。感情の部分を突き破ることができないのである。その原因が当方にあると言うのははっきりしているが、人が人を救わねばならないという利他性を説明するのは難しく、ましてや法理論を含めて倫理の構築から理解し納得させるのは私の能力をはるかに超えている。つまりは私自身が、十分な根拠を持ち得ていないという結論に至るのである。
「惻隠の情」というわかり易いようでそうでもない言葉がある。山本周五郎、藤沢周平の描く世界、落語の人情物などにはそういったのが溢れている。そう考えれば、最近のテレビドラマでも見ようによってはそれに近いものはベースに有るのかもしれない。それらを厳密に具体的に変換して提示すれば現代の若者にも「惻隠の情」への理解が可能となるのかもしれないが、これもかなり困難な作業となろう。理屈でないものは伝えにくいのである。ましてや「わからんちん」のお偉方には不可能である。そういったのって有るよね、という信仰めいたものからスタートしないと骨太の倫理は形成できないのである。
令和4年12月9日
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