除夜の鐘 ラジオは芝浜 茶碗酒
前回が最後と述べたが、おまけで少しとりとめもない話を。
締めの(12月の)ヘルパー会議のネタが「倫理」だった。資料を見ると「倫理は多くの人と共有できる感覚でありながら個人に委ねられている感覚的で曖昧なものである」とある。随分とおだやかな表現である。「人は~~すべきである!」と議論しあっていた私達の学生時代でそんなこと言ったら即出禁である。
しかし、今思うとこの曖昧さからきちんと始めるべきであった。倫理にはゴール地点はない。頂上もない。ただ正しいであろう道を進み続けるだけである。だが方向そのものが間違っている可能性もある。不安しか無いはずであった。誰も教えることはできないし、教わるものでもない。一人ひとりにそれぞれ倫理の有り様がある。旗を立てて我に続け、とはならないはずである。
道徳的な人間は人の尊敬を集めるが、倫理的(と思われる)な人間はどうだろうか。却って疎んじられるかもしれない。道徳は行為をせよとは命じないが、倫理にはその圧力がある。
で、圧力が結晶化したものが法律ということなのだろう。
ヘルパー会議でそんな話をしても皆キョトンだろうが、考えると楽しい。
令和5年12月29日
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