期待されるケアマネ像~あくまで私見
昔似たような官製の標語があった。
前回ケアマネがまず成すべきことは勉強だと言い切ってしまったが、では研鑽を積んでどのようなケアマネさんを目指すのと問われた時の用意もしておかなければならないだろう。
私はケアマネの仕事で最も重要なものは、と聞かれたら即答で「調整屋」と答えるようにしている。介護する者とされる者は利益相反関係にある。一方の満足は他の不満となる。「〇〇が良ければ私はいいわ」なんてのは1ミリたりとも信用できない。澄んでいる水の下は泥と相場が決まっている。ちょっとの揺らぎで忽ち濁ってくる。とりあえずは飲用に適している上水だけ消毒して、これでご勘弁をと、それぞれに呑んでいただく。常に関係者の要求の落とし所を探る、この作業を法制度、関係機関の機能、能力を見ながら本人及び家族の自律にむけて進めていく。それがケアマネさんである。
調整に必要なものは言葉、それ以外に人を動かせるものは無い。人は、少なくとも近代以降の人は言葉の力に逆らうことはできない。考えてみればそうかと思うが、言葉を必要としない人間関係はそんなに多くは無い。例えば乳児が言葉を得るまでの間の母子関係はそれに当たるだろうが、それは僅かな期間でそれでさえも乳児の言語中枢にストックされる言葉は日々加速度的に増えている筈である。そしてある時期から丁度ヘレン・ケラー女史のように外部との関係性を言葉を通じて爆発的に広げていくのである。
言葉の源泉は知識と経験。知識という武器を携えて実戦を経験しアップデートしながら言葉の力をつけていく。そして社会で一定の場を得るのである。世に様々な職業があり、その中にはほとんど言葉を必要としない領域もあるだろうが、少なくともケアマネにおいて言葉を操る能力が社会的平均に届かない時、介護を課題とする関係者間の利害調整役を彼(彼女)が果たせるとは到底思えない。
言葉を必要としない権威がケアマネにあろうはずもないから、我々はひたすら言葉の筋力を鍛え上げていくしかない。。
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