枕も何もなしに・・・

人に限って言えば、であるが、史上最も幸せな人生の最後を迎えたのは、キリストの隣で磔刑を受けた囚人だろうと思う。悪逆非道の限りを尽くしたはてにキリストを救い主と崇めた、ただそれだけで「あなたの罪は許された」の証を得、至福の中で彼は息を引き取った。羨ましい限りである。下品な言い方だが、これほどコスパの良い人生はない。

職業柄多くの人の最終ステージに関わる。本人の心身の状態はそれぞれだが、過ごす場所、交わる人などの環境も同様に違っている。他人の人生を評価するのは不遜であり、それは厳しく戒めないといけないと知りつつも、ついため息が出たり、慰めの言葉が漏れたりする事はある。

幾人かの葬儀にも参列したが、ここにもそれぞれの別れ方がある。ある葬儀だが、喪主の挨拶の後にひい孫(小1の男の子)が祖父母との思い出を語った後「○○ばあちゃんとの思い出を忘れずにこれからも頑張って生きていきます。」と透き通る声がしんとした斎場内に弾むように響いた時は涙が止まらなかった。

そういえばと思い起こすことがある。施設に勤めていた時の事であるが、小倉祇園祭りの競演会の前に毎年町内の山車が慰問に来てくれていた、お年寄りはとても喜ばれていたが、とりわけ小学生の打ち出しになると感激のあまり泣き出す者が多かった。自分の孫でもないのになぜだろうとその時は思っていた。しかし今現在自分自身が孫がいても不思議はない年齢になって初めて気がついた。高齢者は自分が居なくなった世界に生きるものとしてあの幼き命の輝きを見ていたのである。その未来の存在者と太鼓の響きは自分の鼓動に同期し、一体化し、そこに一種の愉悦を醸し出していたのである。そこに命の継続があり、自己の存在を認識できたからこそ喜びの涙が溢れたのである。

高齢者と関わるということは命の受け渡しの現場を見るということでもある。

ケアマネ矢田光雄のひとり言

福岡県北九州市小倉北区真鶴にて「小倉ケアプランセンター」というケアマネ・ヘルパー事業所を経営しております。 こちらでは日々のひとり言をつぶやいております。

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