自由と平等、そして・・・
今回は個人的見解の羅列になる。
「自由」、「平等」で卵、鶏と同様の後先論争はよくあるが、これに関しては(生き死にの問題に絡まなければであるが)自由であると主張したい。一般的には自由な状態とは自分以外の事物に抑制されていない状態を言う。つまり独立体ということである。純粋な全く外界の影響を受けていない個体の存在が可能かどうかは哲学的な命題として置いといて、少なくとも平等を目指すという現実の合議の場でその主張の基盤に自立が担保されていなければそれは聞くに値しないものとなろう。自由なる個人が自らの取捨選択の中で長い時間をかけて培ったものであるからこそ他者はその言葉をその人の意見として傾聴するのである。
ここからがさらに独りよがりになってくる。
日本人は唯一神を知らないから自己存在の希少性を認識するための方法論を得ようとすることに熱心ではない。自らも含めて全てを外世界に溶け込ませ、そこに精神の安寧を得るという、そういった態度を精神世界での高位に置く傾向があると思われる。限界まで論理を積み上げようとはしない。それは子供のすることと、切り捨ててきた。
翻って西洋思想史はキリスト教に触れて以降ルネサンスに至るまでは神との格闘の歴史だと思う。異端査問をかわせるギリギリまで神の存在を突き詰めてきた、その積み上げを経て神からの人間開放の可能性を見出し、近代人の出現につなげることができたわけである。漱石は近代人を「迷える羊」として嘆息したが、自分を縛り付けてきたものは何か、その強大で深遠な存在との格闘が人に自由の価値を知らしめる。
中学の頃よく流行った言葉に「それは個人の自由でしょ」という捨て台詞があった。それを聞かされた教師はあからさまに嫌な表情を見せた。今から考えると当惑していたのだろう。自由という意味を若い心に教える術を持たなかったのだろうと思う。彼自身が突然降って湧いたようにたち現れた「自由」をどう扱ってよいのかわからなかったのだろう。昭和40年代半ばの頃である。
2022年、欧州で戦争が勃発した。与えられた自由とあるべき自由、そして守るべき自由、様々な自由が個体の独立性の質を吟味するが、しかしすぐその後に、いや、すぐ横に、あるものをくっつけないと、あらゆる自由はうわついたものに堕ちてしまうのである。
それは何か。
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