印籠があれば・・・

予告通りケアマネ業を通じて倫理を考えてみたい。

介護の場面で倫理というのも大仰なので「守ったほうが良いルール」くらいのイメージで受けとめていただければ良いと思う。

以前も述べたが介護の受給関係に於いてお互いの利益は相反する。相手が親族であろうと、事業所であろうと結びつきの濃淡で差は生じるが相手の満足は片方の不満となる。と思っていたほうが揉め事は起こりにくい。感情をよりどころとした介護は質が安定しないし継続性もおぼつかない。「親だから、子だから」と相手を枠にてはめそれにふさわしい有り様をお互いに求め合うと少しずつ違和感が増幅してくる。当然であろう、親であろうが子であろうがすべてを捧げて与え続けることは不可能であるから。では、全てでなければどのくらいの按分でと言う段階になるとそこで小さな諍いが起き、雲行きが怪しくなってくる。

介護の世界では「自分の親と思って介護を」とよく言われる、特に現場経験の少ない経営者、管理者にはその手合が多い。「愛し合えば全てが収まる」というのと同根で「それで事が済めば世に揉め事はない、シロウトはこれだから」と訓示を聞きながらつぶやいていたサラリーマン時代を思い出す。

介護は関わる資源が組織的に動くことにより成功に近づく。それ以外に無いと思っている。組織は管理されなければならず、管理には崇高な目的と、能力と、サービスを提供する側の幾ばくかの献身が必要である。突然「献身」が登場した。

ここから少し暴走する。

先の2つの物語のニワトリ、その他の3匹、ツバメと王子を私なりにこのように図式化してみる。ニワトリは行政官で3匹は大衆である。王子は国家で民の安寧という崇高な目的(のようなもの)を持つ。ツバメは自由人であるがなんらかの契機により権力中枢で行政権を執行する。問題はその契機の内容である「涙」だ。

民族、言語、宗教など集団を接着する材料は置いといて、一定の時間の継続を得た集団の歴史の中で生み出され、生き残ったものがあり、それは構成集団、個人の自由意志を制約できる力を持つのではという問い立てをしてみる。それはツバメが自らの死を選ばざるを得なかったように、自由なる存在に対して強い、抗いようのない力を持つのではないだろうか。それこそが涙の正体ではないだろうか。

同じことが一族の歴史の中でも拾うことができるのでは、と私は夢見るケアマネになる。介護を通じて生ずる様々な軋轢を収束させるモノがそれぞれの家族史の中に澱のように沈潜しており、それを見出すことができれば一族郎党がひれ伏する輝く印籠にならないかしらと無能なケアマネの妄想は更に暴走し、加速するのである。

令和4年4月6日

ケアマネ矢田光雄のひとり言

福岡県北九州市小倉北区真鶴にて「小倉ケアプランセンター」というケアマネ・ヘルパー事業所を経営しております。 こちらでは日々のひとり言をつぶやいております。

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