音声変換器に怒りモードを
小説を読んで「明るい気分」になったのは久しぶりだ。ハンチバックである。市川沙央、このような方とだったら笑って喧嘩ができるだろう(お気楽な考えだが)。諍いは日常に転がっている普通の光景である。当然障害者と健常者間にあっても不思議はない。むしろあるべきである。そういう意味でハンチバックは読後が爽快であった。重度障害者が言いたいことを毒づいているのである。おまけに、そこに、不思議なおかしさを伴っているのだから、気持ちが良くなる事この上ない。
私は強烈な博愛主義者でも平等主義者でもないが、社会全体が、平等が担保され博愛に満ちたものになって欲しいとは強く願っている。
理屈に合わない、納得できない扱いを人(私も)は他に課し、自らも同様に受ける。幼い頃から私はいつも何故を問うてきた所謂「可愛くない」子であった。問うことを封じられることに強いストレスを感じるのである。問うことができない関係があることに憤りを覚えるのである。全て、何故を問うことは許されるべきである。物が言えない幼児にもその何故を問う能力を与えてもらいたいと思うくらいである。小学生にはいつも「何故?」を聞いてもらいたい。犬猫でもなんとかマシンでコミュニケーションを取れればよい。ついでに草花も。
「名古屋城天守の木造復元」をテーマとする名古屋市主催の市民討論会で障がい者用の昇降機の設置を求める障がい者に向かって、「我慢しろって話、どれだけ我儘なんだ!」と言い放つような人に投げかける問いは怒りモード変換ができるボイスチェンジャーでもってぶつけてもらいたい。それこそが平等な社会である。言葉は奪えないし、奪われてもいけない。
令和5年9月6日
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